エチオピアの歴史とコーヒー生産

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コーヒー生産国を歴史から知るシリーズ、今回はコーヒー発祥の地・エチオピアです。

調べてみると最近まで神話起源の王朝が続いていたり、近代には白人国家相手に戦争をしたり、どことなく日本に似ているところがあって親近感の湧く国です。

 

まずは場所を確認しておきましょう。

エチオピアの位置

エチオピアはアフリカ大陸東部の国。紅海を挟んで向かい側が「モカ港」のある国イエメンです。
隣国のエリトリアとソマリアは近代以降イタリアの植民地となり、ここから手を伸ばしてくるイタリアの侵攻にも悩まされた国です。

ソロモン王・シバの女王とメネリク1世

エチオピアに関する歴史で最も古いものは『旧約聖書』に遡ります。

これによれば、紀元前10世紀ごろ、エチオピア周辺を統治していたシバの女王が、イスラエルのソロモン王を訪ねていき、結ばれ、2人の子供であるメネリク1世から、代々続くエチオピアの王の系譜が始まるとされています。

アクスム王国・ザグウェ朝

アラビア半島からセム系民族が次第に流入し、1世紀頃に、現在のエチオピア北部とイエメン西部を領土とするアクスム王国が成立します。
ただし南西部のエチオピア高原地域は、引き続き原住の部族単位の統治が続いていました。

アクスム王国の王は、自らをメネリク1世の末裔と称しました。というか、さきほど紹介した伝承自体が、アクスム人によって確立されたものっぽいです。

 

 

アクスム王国はエジプト・ギリシャ・アラブ・インドといった地域との交易で発展しました。輸入品目は銅・鉄・ガラスなど。輸出品目は象牙・金・皮革・奴隷。

4世紀頃に宣教師によってキリスト教が伝えられると、国としてキリスト教国に改宗。これがエチオピア正教会という宗派に発展し、アフリカでは珍しく、植民地以前からの筋金入りのキリスト教国家となります。

 

7世紀に入るとアラビア半島でイスラム勢力が勃興し、交易ルートを絶たれたアクスム王国は徐々に衰退し、10世紀頃にザグウェ朝に取って代わられますが、このザグウェ朝についてはあまり詳しい記録が残っていないようです。

 

コーヒーの起源については決定的な文献が無くてどうもはっきりとしないみたいなのですが、おそらくこのへんの時代がスタートだと考えられています。

カルディの伝説

コーヒーの起源としてよく言われるのが「羊飼いカルディ」に関する伝承です。

これは850年ころにエチオピアの高原に暮らしていた羊飼いのカルディという男が、木の実を食べてハイになっているヤギたちを見てコーヒーの効用に気付いたというものです。

 

ただし、コーヒーが海を越えてイエメンに持ち込まれるのが15世紀、トルコで流行するのが16世紀、ヨーロッパに持ち込まれるのが17世紀です。
したがってこの時点では、コーヒーはあくまでローカルな風習に過ぎず、歴史の表舞台には登場していません。

 

ソロモン朝

1270年、自らをメネリク1世の子孫と称するイクノ・アムラクが反乱の末に王座に就き、復興ソロモン王朝が成立します。

この時代には、東部のイファト、アダルといった地域が改宗してイスラム国化し、南部ではオロモ人が侵入して一大勢力を築き、緊張状態が高まっていました。

復興ソロモン朝時代の支配区域

15世紀頃、この東部イスラム勢力の商人を通じて、アラビア半島にコーヒーが持ち込まれたと考えられています。

もともとカファ地区に自生していたコーヒーが、ハラー地区で商品作物として栽培されるようになり、アラビア半島に持ち込まれ、イエメンのモカ港から世界に輸出されるようになりました。

カファからハラーにコーヒーがもたらされた経緯についてはハッキリしていませんが、一説にはカファから連れてこられる奴隷が、コーヒーの実を食べて種を吐き出しながら歩いたので、コーヒーの自生地域が広がったなどと言われています。

 

アラブ社会に持ち込まれたコーヒーは、その神秘的な効用から「これは悪魔の飲みものじゃないか?」と疑われ、たびたび禁止されながらも着実にファンを増やし、トルコへ、そしてヨーロッパへと広がっていきます。

16世紀にはイエメンでコーヒーのプランテーション栽培が始まり、エチオピアを凌ぐ生産地となります。

 

16世紀半ばから18世紀初頭にかけて、エチオピア・イエメン産のコーヒーは、イエメンのモカ港から世界中に輸出されました。このため「モカ」という名前がコーヒーの代名詞となったのですね。

近代

戦国時代〜テオドロス2世

18世紀に入ると各地域の諸侯が力を持ち始め、反乱が起こるようになってきます。

1769年には北部のティグレ人によって皇帝が殺害され、新たにヤジュ朝が成立しますが、これはエチオピア正教会に認められた王ではありませんでした。

 

1853年にソロモン王朝の血筋であるテオドロス2世が諸侯を統一し、王となります。

メネリク2世

テオドロス2世没後の跡目争いを経て、1889年にメネリク2世が即位します。

メネリク2世は領土拡大を推し進め、東部、南部へ侵攻しました。

さらにエリトリア・ソマリアに続きエチオピアへも侵攻してきたイタリア軍の撃退(第一次エチオピア戦争)を経て、英仏伊3国と国境線についての合意を形成、現在のエチオピアとほぼ同じ範囲を国土として確定します。

内政においては鉄道や道路、教育、金融インフラ整備を進めて近代国家を目指す一方、農奴制を維持して地方領主の権限は温存しました。

イヤス5世〜女帝ザウディトゥ

メネリク2世の死後はイヤス5世が王となりますが、なんと彼はイスラム教徒。
周辺を取り囲む英仏伊とことごとく敵対しながら、オスマン帝国と同盟を結ぼうとします。

これに国内からは反発が相次ぎ、欧州諸国からは「キリスト教の虐待」などと批難され、エチオピア正教会からは破門され、結局1916年にクーデターで王位を追われます。

 

次に実権を握ったのが、メネリク2世の娘である女帝ザウディトゥと、その摂政ラス・タファリ・マコンネン。
(ボブ・マーリーとか好きな方は、この名前に「おや?」と思われたかもしれませんが、この摂政マコンネンこそ「ジャー・ラスタファライ」こと後のハイレ・セラシエ1世です)

イヤス5世が悪化させた西欧との関係回復のため、ラス・タファリは万国郵便連盟加入、奴隷制廃止を約束して国際連盟加入を果たし、文明国として国際社会に認められる成果を残します。

さらにヨーロッパを外遊する一方で日・米とも通商条約を結び、列強と等距離で関係を結ぶという、独特の外交手腕も見せました。

ハイレ・セラシエ1世

1930年にラス・タファリは皇帝として即位、ハイレ・セラシエ1世となります。

1931年にはエチオピア1931年憲法を制定。これは大日本帝国憲法を手本にしたと言われていますが、メネリク2世以来の封建制を解体し、立法・司法・行政および軍事権を皇帝が持つという、中央集権的統治体制に舵を切っています。

第二次エチオピア戦争

ムッソリーニ率いるイタリアは、エリトリア・ソマリアに続きエチオピア領有をも狙うようになります。

1935年からイタリアはエチオピア領内に侵攻を開始します。
ハーグ協定で禁止されたダムダム弾を使うエチオピア軍に対し、イタリア軍はジュネーブ条約で禁じられた毒ガスを使い、さらには上空からマスタードガスを散布するという有様だったそうですが、戦力的にはほぼ一方的にエチオピアが押され、1936年に首都アジスアベバが陥落、イタリアはエチオピアの領有を宣言しました。

ハイレ・セラシエ1世はイギリスに亡命し、国際連盟で侵略や毒ガス使用の違法性を訴えますが、イタリアを敵に回してまで支持してくれる国は多くありませんでした。

 

イタリア入植時代にはインフラ整備やプランテーション経営が試みられましたが、国内のレジスタンス活動の展開などもあり、うまく行かなかったようです。

 

1939年に第二次世界大戦が開始されると、ソマリランドを巡ってイタリア軍とイギリス軍が衝突。
次第にイタリア軍はアフリカ戦線から後退し、1941年にはハイレ・セラシエ1世がアジスアベバに帰還します。

戦後

ハイレ・セラシエ1世の独裁

皇帝に返り咲いたハイレ・セラシエ1世は引き続き、皇帝へ権力を集中させた独裁を行います。

しかし植民地化による開発が無かったことが裏目に出て、工業化に立ち遅れます。さらにもともと鉱産資源に乏しかったこともあり経済成長は停滞。1960年には最貧国入りします。

1970年代に入るとオイルショックによるインフレ、旱魃による大飢饉に見舞われます。
ところがこの頃には大臣や側近らが情報を独占し、国民の窮状を皇帝はまったく知らない状態になっていきました。

クーデター〜社会主義政権

1974年に軍主導のクーデターで帝政は倒されます。
これを主導したメンギスツは社会主義を標榜し、ソ連やキューバから支援を取り付け、一党独裁制・恐怖政治を敷いて長期政権を樹立します。

しかし国内の不満勢力は根強く、ソ連がペレストロイカへ舵を切ったことにより支援が打ち切られると政権は弱体化、エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)のアジスアベバ侵攻によってメンギスツは政権を追われます。

EPRDF政権

新憲法のもと国名はエチオピア連邦民主共和国となり、選挙による民主化も実現され、以降、EPRDFが現在まで政権与党の座を守っています。

 

社会主義政権の倒れた1992年以降、政府は農業主導による経済立て直しに取り組んできました。

 

コーヒー栽培に関しては、生産性向上のための指導や、水洗式加工の導入を奨励することで付加価値向上を進めてきました(個人的には非水洗式のモカが好きですが)

植民地体制によるプランテーション経営がほぼ無かったこともあり、農業生産の90%が小規模農家。
コーヒー生産者では95%が小規模農家であり、森林コーヒーの生産割合が高いことから、面積あたりの生産性は低いです。

 

小規模農家では農薬や化学肥料を購入することが出来ないため、事実上エチオピアコーヒーの95%が有機栽培ながら、特に認証も得ていないとも言われています。

オロミア州ではおもにガーデンコーヒー、南部諸民族集ではおもに森林コーヒーとして生産されています。(農家の家の周囲で、他の作物と一緒に小規模に生産されているものをガーデンコーヒー、森林内に自生するコーヒーを収穫するものを森林コーヒーと呼びます。森に苗木を植えるなど、人の手の入っているものは半森林コーヒー)

エチオピアのコーヒー産地:オロミア州と南部諸民族州

現在

政府主導の計画経済のもと、エチオピアのGDPは2000年代から急激な伸びを見せ、2016年にはケニアを抜いて、東アフリカの首位に返り咲きました。

しかし一方で、選挙の公正さへの疑問、情報統制、オロモ人に対する弾圧といった問題も抱えているようです。

 

最後に、復習として1枚にまとめます。

エチオピアの歴史とコーヒー生産まとめ

 

参考文献

Wikipedia エチオピアの歴史

アントニー・ワイルド『コーヒーの真実』

ATLAS COFFEE CLUB “Ethiopia | The birthplace of coffee

ブロマーコンサルティング「高収益農業研究 アフリカのコーヒー産業と日本の貿易・援助 -タンザニアとエチオピアのコーヒー産業及び輸出促進に対する支援策等-」

百珈苑BLOG コーヒーはじまりの物語

朝日新聞GLOBE+ エチオピアとケニア GDP逆転で思うこと

 

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