ケニアの歴史とコーヒー栽培

コーヒー

コーヒーの産地のことをもっとよく知りたい。
現在のコーヒー産業は、どのような歴史を経て形作られたのか知りたい。

そんな思いで、生産国の歴史を学んでいます。

 

今回はケニア編。

ケニアって、マサイ族が棒持ってピョンピョン飛んでるようなイメージしかないかもしれませんが、コーヒー生産は非常にきめ細かく管理されてて高品質。
「スコット研究所」で生まれた独自品種の SL28、SL34 の唯一無二な風味も素晴らしくて、大好きな国です。

本記事では、そんなケニアの生産体制が形成された歴史的背景を探っていこうと思います。

ケニアの位置

はじめに、ケニアの場所を確認しておきましょう。

ケニアは東アフリカに位置する国。

暑そうですが、南西部は高地になっていて、白人入植者にも暮らしやすく、コーヒー栽培にも適していました。

 

歴史の前半では沿岸の都市が発達しましたが、20世紀に入ってからは農業生産力の高い内陸部が発展しています。

 

スワヒリ文明

7,8世紀頃からアラブ人が東アフリカに進出・定住し、先住のバントゥー系民族と混ざりあい、スワヒリ文明が形成されました。

このときにモンバサやマリンディといった交易都市が生まれました。
季節風貿易で鉄・ガラス製品、布地、小麦、ワインなどを輸入し、象牙、サイの角、亀甲、奴隷を輸出したとされています。
(ヨーロッパと違い、イスラーム世界では奴隷に温情を持って接せられたとする説もあります)

商業都市が形成されたのは沿岸部ですが、内陸部からキャラバンで交易に訪れる部族との交流もありました。

 

この東アフリカのスワヒリ文化圏と、アラビア半島、インド、中国がインド洋の航路で繋がり、インド洋経済圏のようなものが徐々に形成されていきました。

 

これに目を着けたのがポルトガルです。

ポルトガルの支配からオマーン帝国

15世紀末からポルトガルが東アフリカに進出し、ケニアのマリンディ、モンバサ、タンザニアのキルワ、モザンビークのソファラといった都市を支配下に置き、香辛料や黒人奴隷の貿易拠点としました。

(この頃ポルトガルはブラジルも領有しており、ブラジルへ大量の黒人奴隷を輸出したことがコーヒー産業の爆発的な発展に繋がるのですが、この話はまた別の機会に。)

 

しかし16世紀後半から、ポルトガル本国で宗教改革やモロッコ遠征の失敗等により国力が衰退。しまいにはスペインに併合されてしまいます。

この期を逃さず1650年にアラビアのオマーンが独立。
19世紀半ばにかけてポルトガル勢力を一掃し、ケニアを含めたインド洋周辺国一帯を支配する帝国を築きます。

 

オマーン帝国から周辺国への輸出品目は、象牙、砂糖、そして奴隷でした。

イギリスの進出

19世紀に入りヨーロッパで産業革命が起こると、欧米列強から見たアフリカの位置づけも変わり始めます。

労働力としての奴隷の需要は低下し、代わりに工業製品の原材料・地下資源供給地、そして消費地として囲い込もうという動きにシフトしました。

これにより、輸出港だった港湾都市だけでなく、内陸部も欧州から目をつけられることになります。

 

ケニアではイギリスが時には武力で、時には部族長と結んだ「保護協定」によって、植民地支配を確立しました。

沿岸部の、奴隷輸出で稼いでいたオマーン帝国勢力は衰退し、東アフリカだけでなく本国さえもイギリスの支配下に入ってしまいました。

 

 

さて、ケニア内陸部では、イギリス人入植者がコーヒーや紅茶の農園を経営し、富を築くようになります。

特に南西部の高地は冷涼な気候のためイギリス人でも過ごしやすく、コーヒー栽培に適していたため、白人経営の大規模プランテーションが発達しました。
このような地域は「ホワイト・ハイランド」と呼ばれています。

 

さらに白人農園との競合を防ぐために、アフリカ人がコーヒーや茶などの商品作物を栽培することが禁止、アフリカ人の土地私有も禁止されます。
これによって特に農耕生活を送っていた多数派民族のキクユ族は、白人の農園で雇われて働くことを余儀なくされました。

反抗心を持たず、羊のように我慢強い土地の人たちは、権力も保護者もないまま、自分たちの運命に耐えてきた。偉大なあきらめの才能によって、今もなお彼らは耐えている。キクユ族はマサイ族のように隷属に耐えず死を選ぶことはないし、ソマリ族のように、傷つけられ、だまされ、軽んじられた場合、運命に挑戦することもない。異国の神とも親しみ、とらわれの境遇にも耐えてきた

イサク・ディネーセン『アフリカの日々』

というのは20世紀初頭の様子。

スコット農業研究所の設立

ケニアで本格的なコーヒー栽培が始まったのは19世紀末。

フランス人宣教師がレユニオン島のブルボン種をタンザニア経由で持ち込んだ「フレンチミッション種」、イエメン由来の「モカ種」、宗主国イギリスがインドで発見した、さび病耐性のある「ケント種」などがケニア国内で栽培されるようになります。

 

1913年にはイギリス植民地政府の主導で、Scott Agricultural Laboratries(スコット農業研究所)が設立されました。

ここで様々なコーヒー品種の収集と試験、優良品種の選別が行われました。
現在もケニアの主力品種であるSL28SL34は、1930年代にスコット研究所で生まれたものです。

(SL28のワインのような、ドライフルーツのような濃厚な果実味は唯一無二でヤバいくらい美味いです。当店でも取り扱ってるので是非、飲んでみてください)

世界恐慌〜政治運動の高まり

1930年代には、世界恐慌による消費地経済の冷え込みにより、白人農場での商品作物生産が大きな打撃を受けます。

 

これはアフリカ人にとってはラッキーでした。
白人農場におけるアフリカ人労働力の需要が減る一方で、

  • アフリカ人農園からの税収アップ
  • アフリカ人の消費能力向上

を狙って、アフリカ人自身による商品作物栽培が奨励されたのです。

この狙い自体はあまり達成されなかったようですが、白人たちの指導によってアフリカ人農園における農業技術、品種改良技術は大きく向上しました。

1933年には、アフリカ人によるコーヒー栽培も一部解禁、1949年に全面解禁となりました。

 

マウマウ団の乱

1952年から、民族解放運動の過激派であるマウマウ団が、白人農場や政府機関、親植民地派ケニア人を襲撃し始めます。

これは植民地政府の手に負えず、イギリス本土から5万人の正規軍が派遣されます。

1956年まで続いたこの蜂起は、イギリス軍の近代的装備・圧倒的武力によってほぼ一方的に鎮圧されました。

 

しかしこの反乱を通じて、植民地政府は「強権」ではなく「譲歩」によってアフリカ人を抑えようという方向にシフトしていきます。

スウィナートン計画

1954年に、植民地政府は国民の不満を逸らすべく、スウィナートン計画を実施します。

これは、ある一定の品質基準を満たすアフリカ人に、限定された土地私有を認めるものでした。

これによって、アフリカ人の小規模自作農家が増えるとともに、コーヒー・茶・除虫菊といった商品作物について、よく管理された高品質の生産体制が確立されました。

 

コーヒーを生産するアフリカ人小規模農家は1954~63年の10年間で17倍に増加します。

この流れを継承し、現在ではケニアのコーヒー生産は7割が小規模農家、3割がプランテーションとなっています。

独立

マウマウ団の乱を期に民族運動は独立運動へと発展し、1963年にケニアは独立を果たします。

しかしながら、以降のケニア人政権内でも民族や主義主張の対立が存在するまま、今に至っています。

ジョモ・ケニヤッタ政権

初代大統領となったのは、民族運動で指導的地位にあったジョモ・ケニヤッタ。

彼自身はインテリのキクユ族であり比較的穏健派。
外資を積極的に導入したことで経済発展を実現させる一方、白人から奪われていた土地の、アフリカ人への再分配も進めました。

しかし、土地は人口の30%を占めるキクユ族、エンブ族、メルー族を中心に分配されたため、残り70%の諸民族からの反発を受けました。

ダニアル・アラップ・モイ政権

1978年、ケニヤッタの死去により、ダニエル・アラップ・モイが大統領になります。

自民族であるカレンジン族を優遇し、反対派は容赦なく弾圧したため、国内からの不満は高く、経済も停滞しました。

しかし反対派も足並みが揃わず、2002年まで続く長期政権となります。

ムワイ・キバキ政権

2002年に多数の政党による連立を組んで大統領に当選。

しかし政権獲得後はキクユ族優遇に傾斜。

ケニア危機

2007年、再選を目指すキバキと対立候補ライラ・オディンガの一騎打ちでの大統領選挙。

ここで当初不利とされていたキバキ大統領が当選。
開票で不正があったとしてオディンガ陣営から抗議・暴動が発生し、両派が衝突。1,000人以上の死者を出す混乱となります。

国連の調停が入り、連立政権とすることで合意されました。

ウフル・ケニヤッタ政権

ジョモ・ケニヤッタの息子。2013年に大統領選で当選。

2030年までに中所得国入りを目指す「ビジョン2030」を掲げ、経済成長、教育、インフラの拡充を進めています。

2017年に再選されますが、このとき選挙に不正があったとして抗議の声が上がり、投票のやり直しが行われています。

 

 

こうして見てみると独立後も国内での民族間の対立は根深いようです。

アフリカ諸国の倫理観は欧米や日本とはまた違って、国としてのアイデンティティが薄く、民族への帰属意識のほうが強いのだそう。
自分の地位を利用して、身内や自民族に利益をもたらすこと(汚職)が、むしろ良いことだと考えられている側面もあるのだとか。

 

おわりに

以上です。

最後に、復習として1枚にまとめてみます。

 

 

ケニアのコーヒー生産体制は、比較的現地人の手に取り戻されていながら、非常に緻密な品質管理体制を持っているという点でかなり独特なものです。

歴史をたどってみると、それは偶然のタイミングを捉えて成立した面も多分にあるようです。

一度確立してしまった支配や搾取の体制を崩すためには、世界恐慌のような強烈な一撃がないと、なかなか難しいのだなとも感じました。

参考文献

Wikipedia ケニア

Nairobi Coffee Exchange ホームページ

Wikipedia イスラームと奴隷制

世界史の窓 オマーン

歴ログ インド洋の覇者・オマーン海上帝国の興亡

百珈苑BLOG

World Coffee Research SL28

kenyamatecchanのブログ 【汚職は文化?】ケニア人・ケニア社会を理解するための4つのキーワード

半澤和夫 「ケニアにおける商業的農業の発達とその特徴」

児玉谷史朗「ケニアにおける小農の換金作物生産の発展と小農の階層分化」

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