中南米のコーヒー産地で特に有名どころと言ったら、ブラジル・コロンビア・グァテマラといったところでしょうか。
なかでも私はグァテマラのコーヒーが好みです。
あまり個性的な銘柄はないですが、さわやかで飽きの来ない味わいで、いつ飲んでも美味しいです。
本記事ではグァテマラの歴史と、コーヒー産業が形成された過程について書いていきます。
まずは位置を確認しましょう。
グァテマラは中米のほぼ真ん中に存在する国。
ブラジルやコロンビアと比べると大国アメリカに近く、歴史的にもアメリカの影がついて回る度合いが比較的大きいです。
それでは、グァテマラの歴史について見ていきましょう。
スペインの占領から中央アメリカ連邦崩壊まで
コロンブスのアメリカ大陸発見以後、中南米はスペイン・ポルトガルの侵略に晒されます。
マヤ文明の末裔たちが住まっていたグァテマラも、1520年代からスペインの侵略を受け始めます。
1544年にはグァテマラ総督府が設置され、スペインの植民地となりました。
その後、長らく植民地としての時代が続きましたが、1789年のフランス革命を期に、状況が動きます。
ヨーロッパの混乱を受け、植民地独立の動きが起こったのです。
1821年に、グァテマラ総督府はスペインから独立。
第一次メキシコ帝国に併合・離脱を経て、1823年にホンジュラス・エルサルバドル・ニカラグア・コスタリカと共に中央アメリカ連邦を結成します。
(独立とは言っても、この頃には少数のクオリージョ(植民地生まれのスペイン人)が多数の先住民族を支配する形態が出来上がっています。中央アメリカ連邦というのも、アメリカを手本にして白人が作った枠組みであり、要はアメリカ独立と同じようなことを目指していました)
しかし、この中央アメリカ連邦は結成時から保守主義のグァテマラと自由主義のホンジュラス・エルサルバドルの対立が激しく、内戦を繰り返した挙げ句に1840年前後に構成国が相次いで独立し、崩壊しました。
保守独裁政治の時代
アメリカのモンロー主義
中南米諸国の独立後、アメリカはモンロー教書を欧州に叩きつけます。
これはヨーロッパとアメリカ大陸の相互不干渉を要求するもので、独立した中南米諸国の再植民地化を許さず、アメリカの「裏庭」として経済的支配下に置くことを狙ったものでした。
グァテマラの政権には、このモンロー主義に迎合する政治家が多かったため、典型的な白人少数支配体制が築かれていきます。
カレーラ大統領時代
1839年から1865年まではラファエル・カレーラ大統領の独裁体制のもとで、保守主義政策が実施されました。
- 教会の特権回復
- 大土地所有者の保護
といった、既存の上層階級の利権を守る一方で、先住民族の共有地を保護するといった面もありました。
コーヒー栽培は1850年代頃から盛んになったようです。
もともとコーヒーは、イエズス会の宣教師によって観賞用として持ち込まれたものでした。
しかし、主要産業だったインディゴやコチニールが、合成染料の登場で大打撃を受けたことをきっかけに、商品作物としてのコーヒー栽培に徐々にシフトしていきました。
自由主義と外国資本の流入
続いて1870年代以降は、バリオス大統領、エストラーダ大統領と自由主義系の独裁政権が続きました。
この時代には、外国資本を誘致して開発を促進し、また土地改革として旧来の所有者から土地を没収しました。
その結果、農地は教会や先住民の手からイギリス・ドイツ・アメリカの資本に渡り、少数の土地所有者によるプランテーション経済が確立しました。
また、アメリカの農業系大企業であるユナイテッド・フルーツ社が政権の中枢と結託し、道路等のインフラ提供とひきかえに、グァテマラ国内のバナナ産業を独占しました。
ウビコの独裁
1931年、クーデターが繰り返されるなか、ホルヘ・ウビコ将軍が大統領の座に就きます。
この人は自他共に認めるファシストであり、「自由なのはウビコただ1人」なんて言われるほどの苛烈な政治を行いました。
公務員の給料4割カットと容赦ないクビ切りで財政再建、ほぼ私兵隊に近い「国家警察軍」を組織すると、1939年には、ファシストのくせになぜか連合国側で参戦。
このとき「敵性国民である」との理由で、5000人のドイツ人農園主の農地を没収して私財にしてしまいます。
結局、戦争の長期化によるインフレから国民的な追放運動が起こり、1944年に彼は失脚します。
グァテマラの春
ウビコ追放後は、グァテマラの民衆にとって短い春が訪れます。
元哲学教授のアレバロ→元軍人のアルベンスという2人の大統領の政権下で、
- 土地改革:大規模地主の土地を政府が買い上げ、国民に分配
- 大衆の識字率向上
- 先住民族の権利回復
といった施策がなされました。
これは大衆からは非常に歓迎されましたが、利権を失った軍部やエリート層の反発を買います。
またアメリカに対し、「中米の共産化」に対する警戒心を与えてしまいました。
とりわけユナイテッド・フルーツ社の農地を(対価は払ったとはいえ)取り上げてしまったことが、アメリカの怒りに火を着けました。
1953年、CIAが糸を引き、エルサルバドルに亡命していた軍人のカルロス・カスティージョ・アルマスを支援し、攻め込ませます(PBSUCCESS作戦)
軍部からの支持を失っていたアルベンス大統領は抗戦することが出来ず、失脚します。
アルマス体制から内戦へ
カルロス・カスティージョ・アルマスはそのまま大統領に就任。身内の反共連盟出身者しか選挙に出られないようにするなど、独裁体制を築きました。
アルマス自身はまもなく暗殺されますが、政府派/反政府派の対立構造は後の時代まで持ち越されます。
1960年ごろから反政府派は山中に潜伏してゲリラを結成し、政府軍とゲリラとの内戦が長く続きます。
グァテマラの農民にとっては、この内戦時代がもっとも辛い時代だったと思われます。
政府軍はゲリラ根絶を目指して、村をまるごと焼き払うなどの苛烈な弾圧を行いました。
一方でゲリラ側も、協力しない村人は政府のスパイと見なして殺害するといった過激な態度であったと伝えられます。
内戦は1996年の和平協定締結まで約36年続き、20万人が死亡または行方不明になったとされています。
和平から現在まで
政府の焦土作戦によってゲリラは徐々に弱体化しました。
それと同時に、非人道的な弾圧に対しての国際社会からの非難が高まり、1996年に和平協定が締結され、内戦は終結します。
この和平協定の内容は、国軍改革、選挙改革、先住民の人権保障、土地問題への対応、内戦中の人権侵害の解明、等多岐に渡りましたが、和平2年後の1998年ごろから履行は失速しています。
いまだ国民の6割が貧困層であるとされ、政治的暴力は無くなったものの、治安の悪化は大きな問題となっています。
コーヒーの生産は、依然として大型農企業と、そこで雇われる労働者という形態が主流です。
特に収穫期は、出稼ぎに来る短期の労働者によって支えられています。
企業は年単位で賃金や福利厚生費を払わなくて良くなる一方で、労働者は十分な食料、住宅、医療、教育へのアクセスが一層難しくなっています。
また、農園によっては児童労働者を使用しているところもあるという報告もあり、労働環境は概してあまり良くないようです。
おわりに
最後に復習してみましょう。
ざっくり1枚にまとめてみました。
正直、グァテマラのコーヒーって、さわやかで優しい味わいなので、グァテマラという国も、穏やかでのんびりとした国なのかなーなんて勝手なイメージを持っていました。
「産地のことをもっとよく知りたい」くらいの動機で今回は調べてみたのですが、なかなか胸の痛む歴史を持った国であることが分かりました。
コーヒー屋としては、現地の現場で汗を流してコーヒーを作ってくれている人たちにとって、より良い買い方を模索していきたいと思うばかりです。
参考文献
Wikipedia グァテマラの歴史
日本ラテンアメリカ協力ネットワーク「グァテマラ資料集」
Equal Exchange History of Coffee in Guatemala
Wikipedia Coffee_production_in_Guatemala
Drifaway Coffee Origin Spotlight:guatemala/
国際協力事業団「グァテマラにおける民主化プロセス -内戦終結以降の民主化プロセスにおける主要課題と各国援助取りまとめ-」
国際労働財団 「グァテマラの労働事情」