コーヒー生産国の歴史シリーズも本記事で4本目。
今回は世界最大のコーヒー生産国であるブラジルを取り上げます。
ブラジルが圧倒的な生産量を誇るようになった背景も、歴史を紐解いてみれば一目瞭然でした。
先史時代
ブラジルにはじめて人間が足を踏み入れたのは、紀元前8000年くらいだと言われています。
先住民たちはアジアからベーリング海を渡って、南米大陸にたどり着きました。
南米大陸西海岸ではナスカ・クスコ・インカ帝国といった文明が発達しましたが、ブラジルまでは影響が及びませんでした。
ブラジルの先住民は、大航海時代以前まで、ずっと原始共同体生活を送っていたようです。
ポルトガル植民地時代
1500年ポルトガルの騎士ペドロ・カブラルの船団が、現在のサルヴァドール付近に漂着。ブラジルはポルトガルの帰属地となります。
当初は染料のもととなる「ブラジル木」に高い需要が集まり、沿岸部に商館を建てて交易がなされる傍ら、内陸への探検もたびたび進められました。
砂糖の時代
16世紀半ばから17世紀半ばにかけては、砂糖の時代と呼ばれています。
ポルトガルは、アフリカの自領アンゴラなどから奴隷をブラジルの地にはこび、サトウキビのプランテーションで働かせました。
この頃は少数の入植者がインディオやアフリカ人の奴隷を支配するというのが基本構図でした。
一部の奴隷は、脱走して内陸部にキロンボと呼ばれる自治区域をいくつか作りましたが、それもポルトガル軍によって征服されました。
黄金の時代
17世紀末には、砂糖生産がカリブ諸国に広がるにつれて価格が下落。それに代わって内陸部のミナス・ジェライスで金とダイヤモンドが発見され、ゴールド・ラッシュが発生します。
内陸部のインディオだけでは人手が足りず、アフリカからさかんに奴隷が輸入されました。
重商主義政策
1750年から、ポルトガル本国では国王ジョゼ1世の信任を受けたポンバル公爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョが啓蒙的専制を行いました。
カルヴァーリョは英国の産業革命と経済的成功を手本とし、
- 商業の振興
- 工業化の推進
- イエズス会の権限縮小
- 反発する貴族への弾圧
- ポルトガル本国へ持ち込まれた奴隷の即時解放
といった改革を行いました。
これによって本国・植民地ともに教会や貴族の権威が衰え、ブルジョアジーが成長しました。
工業化も進み本国が好景気に沸く一方で、ブラジルでは力を強めた大土地所有者を中心に、独立の機運が生まれるようになりました。
この頃、フランス領ギアナからコーヒーが持ち込まれます。
ポルトガル王室の移転
1807年、ナポレオンの大陸封鎖令への協力を渋ったポルトガルは、フランスとスペインの連合軍による侵攻を受けます。
このとき女王マリア1世、摂政ジョアン6世をはじめ、王室や貴族のべ15,000人が、同盟国であるイギリス軍に守られてリオデジャネイロへと避難してきます。
王室はそのままリオに留まり、1815年にはリオデジャネイロを首都とするポルトガル・ブラジルおよびアルガルヴェ連合王国が成立します。(アルガルヴェはポルトガル南端の半自治区)
以前から同盟国というか保護国に近い関係だったイギリスとの間には自由貿易協定が結ばれ、またイギリスにブラジル国内における領事裁判権も認められました。(日本と米英との不平等条約に似てますね)
これにより、ブラジルの市場は競争力の高い英国工業製品に席巻され、徐々に立ち上がりつつあったブラジル国内の工業は壊滅的な打撃を受けます。
ポルトガルの革命とブラジルの独立
大陸封鎖やロシア遠征の失敗によりフランスの力が弱まると、ポルトガルでは革命の機運が高まり始めます。
この動きは1820年に、軍の主導による自由主義革命として結実します。
革命勢力の要求を受けて国王ジョアン6世はポルトガルへ帰還、ブラジルには摂政としてペドロ王子が残されました。
王の帰還を受けたポルトガル議会は、ふたたびブラジルの主権を奪い、植民地へと格下げします。
これに反発したブラジルの市民階級と摂政ペドロ王子により1822年、独立が宣言され、王子は皇帝ペドロ1世となりました。
帝政時代
ブラジルの独立は、長い独立闘争を経た他の中南米諸国とは違い、植民地時代の統治形態をそのまま継承するような形で進みました。
大きな血が流れなかった一方で、白人や大土地所有者主体の権力構造はそのまま維持され、イギリスへの経済的従属も解消されませんでした。
これに対して国内の有色人種を中心に反発は強く、たびたび暴動や反乱が発生しました。
ペドロ1世の後を継いだペドロ2世は、国際社会の流れに沿う形で1888年、奴隷制を廃止します。
しかし、これによって帝政は、奴隷を使って農場を経営していた白人中産階級からの支持も失うことになります。
これに呼応した軍のクーデターによってペドロ2世は退位を余儀なくされイギリスに亡命、帝政は崩壊し共和制へと移行しました。
さて、社会的転換のきっかけとなった奴隷制度と、コーヒー産業との関係についてちょっと見てみましょう。
19世紀中頃には、コーヒーが、ブラジルの輸出品目の半分程度を占める産業に育っていました。
生産体制はファゼンダと呼ばれる大規模農場型。大土地所有者がコロノと呼ばれる労働者を雇い、住まいや食事(大規模なファゼンダでは学校・病院・警察等も)を提供し、労働に従事させるという形でした。
このコロノの大部分は奴隷でした。
ブラジルの奴隷貿易廃止は1850年、奴隷廃止は1888年でしたが、これを諸外国と比べるとこうなります。
ポルトガル | 1761年 |
スペイン | 1808年 |
アルゼンチン | 1813年 |
チリ | 1823年 |
イギリス領 | 1833年 |
フランス | 1848年 |
ペルー | 1851年 |
コロンビア | 1853年 |
アメリカ | 1865年 |
ブラジル | 1888年 |
ブラジルのコーヒー産業が世界1位までに発展したのには、
- 植民地型の大規模農場経営
- 奴隷制
が長く維持されたことが背景にあったのです。
近代
カフェ・コン・レイテ
政権は軍部からほどなく文民に移行されます。
廃止された奴隷に代わる労働力として、ブラジル政府は海外からの移民を積極的に求めました。
豊富な労働力の流入、人口増加によりコーヒー産業の中心地であるサンパウロ州、畜産の中心地であるミナス・ジェライス州が大きく発展します。
1902年以降は、この両州からの出身者が交互に大統領を勤め、「カフェ・コン・レイテ(コーヒーと牛乳)」体制と呼ばれました。
この体制が続くなかで徐々に政治腐敗が生まれ、また他州からの反発も高まりました。
移民に関して、1908年以降、日本の皇国植民会社はさかんに移民の斡旋を行い、見返りとしてサンパウロ州政府から年間1,000俵のコーヒー豆無償提供を受けました。
日本人にコーヒーを布教し、この大量のコーヒー豆をさばくべく1911年に銀座にオープンしたのが、カフェー・パウリスタです。(芥川龍之介、与謝野晶子、ジョン・レノンなどが通った名店。今もあります。パウリスタとは「サンパウロっ子」という意味)
ヴァルガス政権〜ポピュリズム時代
1930年に、サンパウロ以外の諸州連合が武装蜂起。軍もこの反乱を支持し、リオ・グランデ・ド・スル州出身のジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスが大統領となります。
彼には大土地所有者の後ろ盾が無かったため、都市中間層や労働者にその支持基盤を求めました。
政策としては
- サンパウロとリオデジャネイロの工業化推進
- 共産主義の弾圧とナショナリズム称揚
- 国営インフラ企業の設立
ややこしいのが、ヴァルガス政権じたいはファシズム政権なのですが、アメリカに追従して第二次世界大戦には連合国側で参戦、イタリアに派兵しています。
しかし戦後は都市部の労働者からの支持を得るために政策は左傾化。
軍と対立し、1954年のクーデターでヴァルガスは失脚するも、選挙で後継に選ばれたいくつかの政権も、プロレタリアートの支持を受けて左寄りの政策を展開しました。
このときに「コーヒー牛乳」2州と他地域の格差是正を狙い、内陸部の高原地帯に巨大な計画都市ブラジリアを建設し、1960年に遷都します。
これによって内陸部の開発は進みましたが、反面で莫大な財政赤字を生み、インフレが発生し社会が混乱しました。
軍政時代
1964年にクーデターが起こり、カステロ・ブランコ将軍が大統領となり、以後、軍部の独裁政権となります。
この時代には緊縮財政や国営企業の払い下げといった施策が採られましたが、国民の生活はさらに窮乏。デモやストライキ、さらには都市部に革命ゲリラが現れる事態となりました。
政権は反体制派の追放、ゲリラの殲滅といった強硬手段によって治安を回復したうえで積極的に外国資本を導入し、工業化を進めました。
その結果、1968~1973年の5年間は自動車産業などを筆頭に平均成長率10%越えの高度経済成長となりブラジルの奇跡と呼ばれました。
しかしこれは労働者の賃金を低く抑えながら、富裕層や外国資本がますます富むという構図であり、貧富の差は拡大します。
農村では外国資本による大規模集約型農業がさらに発展し、一方で土地を失った農民が都市周辺に流出し、スラムが形成されました。
1973年にオイルショックが起こると、成長にはブレーキが掛かります。
通貨の下落による対外債務の膨張、インフレにも苦しみ、1981~1992年は「失われた10年」と呼ばれる低成長に苦しみました。
民政移管後から現代まで
1985年に民政移管がなされますが、経済的低迷はすぐには解決を見ませんでした。
転機となったのは1994年に実施された「レアル・プラン」です。
- 財政健全化
- ドルと連動した仮想通貨「URV」の暫定的導入
- 新通貨レアルへの切り替え
という施策によって慢性的なインフレを押さえ込み、再び成長路線に乗り、現在に至ります。(正直このレアルプランはけっこう複雑で、仕組みが理解できてないです。後ほどしっかり調べて、分かりやすい記事にしたいです)
コーヒーの生産に関しては、植民地時代以降、農業に大きなパラダイムシフトがなく続いてきたことや、主要な輸出先がアメリカだったこともあり、基本的には大規模農場で労働者を雇って、それなりの品質の大量生産というスタイルが主流です。
しかし近年ではスペシャルティコーヒーに対する関心の高まりや、ブラジル国内でのコーヒー消費量の増加もあり、手間を掛けた高品質コーヒーの生産も徐々に広がっています。
最後に、1枚でまとめてみます。
参考文献
Wikipedia:ブラジルの歴史
世界史の窓:ブラジル
小澤卓也「コーヒーの味は歴史が決める -グローバル・ヒストリー的アプローチ-」
Wikipedia:奴隷制度廃止運動